粟生津

地球の表面はいくつかのプレートにわかれていてこれらが互いに押し合いへし合いしている。太平洋プレートが大陸のプレートの下へもぐりこんで大陸プレートのへさきが盛り上がっているところが日本の島である。さらにチベット南方から吹き寄せる気流は豊潤な水分を含み日本の島に雨を降らせる。
峻険な島国は多量の雨に洗い流されて土砂は低地へ運ばれる。


粟生津は読んで字のごとく津(みなと)であったと思われる。ということはかつてこの新潟平野は海であったということだ。長い年月の間に信濃川やその支流の魚野川、刈り谷田川、五十嵐川、阿賀野川などが土砂を運んできて海は埋め尽くされたのだと思う。その後もときどき川は氾濫して平野を泥の海にすることもあり、”横田切れ”明治29(1896)年7月22日。などの言い伝えが残っている。


これを憂いて先人たちは大河津分水を切り開いた(明治頃)。今でも分水の出口である寺泊や野積み浜は砂浜が海にせり出して年々広がっている。 現在では川の氾濫による被害も無く毎年安定して米を収穫できる新潟平野となった。

ファイル:Japan Niigata Map Chikei.png


平成の大合併で燕市となったがその以前は西蒲原郡吉田町大字粟生津という。 蒲原というのはガマの穂が生い茂る原という意味。


吉田という地名は日本各地にある。きれいに区画された田んぼが広がるところ。