私の米つくり概念

佐一郎農薬を使ってできた米と、使わないでできた米をそれぞれコップに入れて水を入れておくと農薬の米のほうが腐敗が速く進む。除草剤を使った田の土と、使わない土を同じようにペットボトルに入れて比較すると除草剤を使わないほうは藻が生えてくる。

新潟市羽黒の武石貞夫さん宅で見せてもらいました。これは観測結果ですが、うなずけることです。

私が無農薬で米つくりをはじめたのはそれが自分の本業であると思ったからです。農業高校を卒業して家業に従事し始めたころは両親だけでは手が足りず待ち望んでいたように労働の中心にさせられました。

それからの世の中は科学の進歩もあり、労働を軽減する方向に進み農薬が開発されてきました。反面浮いた労力は農業を離れてほかの産業へ向くようになりました。

 

出稼ぎをしながら「自分はいったいこのままでよいのだろうか?」と考えるようになり、「こんなことでは大事な本業が衰退してしまうのではないか?」と思うようになりました。

以前に比べて改善されたことはそれはそれとして受け入れて、自分のできる範囲で本業にうちこみたいと思うようになったわけです。田を植えた後も収穫するまで作物は気を抜くことが出来ません。農薬漬けにしてどうして安心していられるものでしょうか。

草取り雨あり風あり暑い日もあり,寒い日もありで毎日同じ日はありません。そんな中で稲は丈夫に育ち、やがて開花して実を結ぶことが出来るのです。手を掛けすぎても、放任しても良いはずはありません。 まして農薬に汚染されて出来た作物が人の健康に良い結果をもたらすはずはありません。

私は農薬を使わずに米を作ろうと決めました。

そうやって出来た米を喜んで食べてもらえるならばそれでやっと目的を達したというものです。

もちろん経営として成り立たせなければなりませりん。売り上げがあって経費を差し引き、従事者や家族の生活を保障しなければなりません。そしてまた再生産できる体制を整えてゆかなければなりません。あえてそうするというよりも、それが自然であるということです。

天日論理を組み立ててマニュアルどおりに行動するというのではなく、自然体が先にあってそれを分析した結果論理が生まれたのです。

なべての生物にいえることは、栄養成長と生殖成長とがあるということです。このもっとも基本的なことを頭において、卑下することなく自分の仕事に誇りを持って生きたいものです。

 

自分は人の健全なる食を生産すると言う部分を担っているのだということを。

地球を考える

昔の人は危険を犯してまで外国へ行ってみたいと思った。それが今ではいとも簡単に行くことができる。これも文明の進歩であろうか。  宇宙のかなたから地球を眺めたらどうだろう。水色の美しい星だろうか?

それとも赤茶けた陸地ばかりだろうか 。飛行機で行きに感じたことはアメリカの山はつるっぱげの地肌が多くて日本と異なる。雨が少ないせいだろう。 また帰りの飛行機で地上の夜景を眺めながら感じたことは真っ暗闇の大地に赤々と灯る眠らない町。地球温暖化などしきりに聞くがこのような夜通し燈す電気を規制することはできないのだろうか。そんなことを考えながら自分はジェット機に乗って大量の燃料を消費しているんだ。

最近は世界のあちこちで地震が発生している。その原因もほぼ解明されつつある。 地球は自転している。自転運動をすると地表も地球内部も一緒に動くわけだが、密度や硬さが違う部分 があるとその動きもみな一様ではない また内部から表面に湧き出るところもあれば反対にもぐりこむ部分もある。そして摩擦が生ずる。

地上のいくつかのプレートがぶつかり合ってその歪が溜まってあるとき一挙に爆露するからだ。およそその位置がわかっているならその地域に人は住まないように心がけるべきだ。その災害による損害や多くの人々の痛ましい惨状を未然に防ぐことを考えるべきだ。

人は自分より優遇されている人を見ると嫉妬する。また狭くて閉じ込められた空間に長い間いると殺し合いをするという。あらかじめそういう性質を持つのが人間だとわかっているなら。それを防ぐことを考えるべきだ。

 

アルゼンチン町並みヴェノスアイレス空港に降りてロベルトのお父さんに聞いてみた。『アルゼンチンは近年フォークランド戦争がありましたね?』『アルゼンチン人はフォークランドとは言わずにマルビナスという。フォークランドと言ったらアルゼンチン人は皆怒ります!』

人には誰でも誇りというものがある。アルゼンチンの国情など露ほども知らない他人がアルゼンチン人に知ったかぶりで物を尋ねて怒らせてしまった。と反省する

文明は進歩する。必ずしも善であるとは言えない。文明の遅れたところにこそ自然があり人の生活が環境に調和しているといえる。